ハプニング

あの時代、人々がフェルメールだと思ったコードから、我々は解放され、恐らく別の「フェルメールっぽさ」のコードに囚われているのだろう。
――伊藤計劃:第弐位相 ファン=メーヘレンと時代


 シャマランまさかのR指定映画。
 冒頭、いきなり次々と人が凄惨な死を遂げて驚かされる。
 髪留めで首を突き刺して。工事現場から飛びりて。草刈り機に巻き込まれて。
 一様に凄く痛そうな死に様なのだけれど、感情が欠落しフラリと自分の命を絶ってゆく姿はどこか黒沢清の「CURE」みたいに茫漠とした美しさがあって、凄惨なんだけれどつい見入ってしまう。


 この原因不明の集団自殺は劇中とりあえずフィトンチッドと仮定され話しは進むのだが、結局のところその集団自殺の原因は明らかにされず、観る者は納得のいく結末は与えられない。真実は宇宙人の毒電波かもしれないし、土地の呪いなのかもしれない。
 分かることは「風が吹けば、人が死ぬ」ただそれだけ。
 その理不尽な出来事から、ひたすら逃げる。それだけの映画。実に体感的だ。


 その中でも、廃屋に立てこもった「何者か」が次々と少年達を殺害するシーンが印象的である。件の「何者か」は一度も姿を現さず、窓からヌッ突き出された銃身だけがいきなり火を噴く。街路樹で首を吊った人々がプラーンという絵にも強く心掴まれるが、あの姿無き無気味な「何者か」はもうほとんどヒッチコック状態の恐怖だ。


 この映画はもはや「練られた脚本」と「意外な結末」を売り物とするシャマラン映画ではない。


 今思えばシャマランはシックス・センス以降「脚本の呪い」に捕らわれていた。シャマラン映画といえば皆話題はイチもニもなく「オチ」「オチ「オチ」と、絶望先生でもダメなブラックホールと評されてしまうほどオチが全ての様に語られる。だがこれはもう殆ど監督の領分ではなく脚本家の領分である。監督としてはやり難いことこの上ないだろう。


 そのオチが悪いと、シャマランは叩かれる。
 シャマラン作品の中でも最低の評価を受けているレディ・イン・ザ・ウォーターの何が悪いのか、正直僕には分からなかった。冴えないオッサン、いつもビショビショに濡れているどこか陶器の様な質感の女の子、闇と雨のクライマックス。あれ完全にいつものシャマランじゃん。(シャマランの映画の女の人ってどこか無機質で素敵ですよね)


 「シャマランらしさ」とはオチではないのだと、あのときハッキリ気がつければよかった。


 だがこの「ハプニング」で、ハッキリとシャマランは変わった。
 その証拠に今回は監督本人のカメオも無しです。
 「練られた脚本」も「意外なオチ」も無く、ただシャマランが映画を撮るということをするとどうなるのか。そして作られる独特の雰囲気はあらフシギ、確かにシャマランとしかいいようが無い。
 物語に惑わされてはならない。意味に騙されてはならない。
 独特の雰囲気を作り出す撮り方、語り口、ディティール、スタイル。
 そこにシャマランらしさのコードを探す。
 小説でいえば文体ですが、これがとんでもなく面白い作業である。


 だから偏見をいっぱい持って観た方が、この映画にビックリできます。
 普段からシャマランの映画にガッカリするのを楽しみにしている方。
 オチもイミも無い純粋シャマラン節、期待は裏切りません。


 今回も、ガッカリ、です。(句読点まで使って誉めちぎってます)





 追記:ところでこの映画、SFオタ的には完全に「しおかぜエヴォリューション」なんですが、あのフラフラッと思いついた様に自ら命を絶つ風景というのは「ハーモニー」を思わせますね。