最近ヤンキーに見える「ハガレン」

 


 昨年から、面白くなくてもひたすらにアニメを観るという不毛な習慣がつきました。
 非生産的なことこの上ないです。(何故、私はプリンセスラバーやクイーンズブレイドを観ていたのでしょう)
 その中でも割と楽しく見れているのはハガレンだったりします。
 人物描写とか死の描き方とかが主に話題に挙がるハガレンなのだが、僕は戦争モノとして観てて結構面白いです。



 僕の好きな映画で、ウィリアム・フリードキンの「英雄の条件」という映画があります。
 (戦争映画としてはどうなのかという問題はあるのだけれど、そこはまーいいとして)


 デモ隊に囲まれたイエメン大使館から大使救出するという任務を負った軍人・チルダース(サミュエル・L・ジャクソン)が大使を救出するのに成功するも一般に発砲、デモ隊を虐殺。無抵抗の市民を虐殺した罪で軍法会議にかけられる――というのが大まかな粗筋。


 デモ隊の中に銃を持っていた者が居た事が証明されれば発砲は正当化されるので、そこら辺の調査等が映画の大半を締める。


 しかしデモ隊の中に銃を持っていた人間が紛れ込んでいた否かはともかく、民間人が虐殺されたという事実には変わりはない。果たしてその責任をチルダース(アメリカ)が負うか、負わなくても良いのか、というのが大雑把な作品の焦点となっている。
 どちらに転んでも後味が悪いのは言うまでも無い。
 物語の中盤でトミー・リー・ジョーンズ演ずる弁護士がチルダースに「てめえ、民間人を虐殺しやがったな!」と詰め寄って殴りあうんだけれど、最後には互いを笑いあう――という馬鹿みたいなシーン(ヲイ)があるんだけど、こういうカンタンな「救い」を、ハガレンは許さないフシがある。


 例えば民間人を虐殺しておいて責任を負わないという選択は、ハガレン世界においては無い。イシュバールの「責任」をエンヴィーに押し付けてもお話としては機能するし、キャラクターへの最終的「救い」はあるのだけれど、そんな逃げは許されない。


 日本のアニメの常套句としての「大切な物を守る為に戦う」という逃げも許さない辺りヤンキーっぽくて格好良い。自分でどんどん締め付けて、救いようが無くなっていく。なんでもかんでも手前でオトシマエをつけようとする辺り、なんか不良って感じがします。

 
 まあ無責任=悪いという考え方が、必ずしも正いとは僕は考えないのですが。
 笑って諦めちまおうと思ってしまうの方も、決して悪ではないと思うのです。







 戯言:「ハガレンってさー、ナチ風制服+オカルティズム+サイバネティクスウルフェンシュタインみたいなセンスだよねー」とか言ったらなんか変な人扱いに。なんでやねん。前期のサイボーグアーチャーとか完全にウルフェンシュタインの住人だったろうが。