われは野蛮人。
胃がさがるのを感じつつ、ラングドンは遠くをながめた。コロッセウムの廃墟が目に留まった。つねづね思うのだが、コロッセウムは歴史至上最大の皮肉のひとつだ。いまでこそ人類の文化の反映の堂々たる象徴などと言われるが、この競技場では何世紀にもわたって野蛮な催しが繰り返されてきた。公開処刑や去勢は言うに及ばず、餓えたライオンに囚人を食いちぎらせたり、大勢の奴隷を死ぬまで闘わせたり、遠い地で捕らえた異国の女を輪姦したりした。コロッセウムがハーヴァードのソルジャー・フィールドの青写真となったのは、皮肉ではあるが、ふさわしいと言えるのかもしれない。あのフットボール競技場では、毎年秋に古来の蛮行が再現される……熱狂的なファンが血を求めて絶叫するなか、ハーヴァードとイェールが激突するのだ。 ――ダン・ブラウン 「天使と悪魔」
……そんなコロッセウム(=コロッセオ)が大好きなのである。
ラングドン教授の言う通り、奴隷を殺し合わさせたり、囚人をライオンに喰わせたりした場所を好きとか言ってる手前は変態かと言われれば二の句が無いが、あの血塗られた古代の殺戮施設というのがタマランのです。
個人的には地球上稀に見る萌え要素の塊の様な施設だと思うのだがどうだろう。
巨大施設・闘い・獣・殺戮・欲望・名誉・歓声・絶望・死
並べるだにヤバすぎるオーラを放つキーワード達が踊り狂っちゃいます。
全国の厨房がコレに震えがこない筈がない。(実体験)
だから当然グラディエーターとかスパルタカスとかの映画も大好きで、ベン・ハーなんかもかなりニヤニヤできます。しかし、何故かSFコロッセオには萌えられない。
未来の殺戮ゲームという設定はSF(特にB級)ではお馴染みの文化で、最近だとデス・レースとかMADWORLDとかそれこそ探せばいくらでもあるのだけれど、個人的にはどうにも食いつきが悪い。楽しかったのはバトルランナーくらい。
何故かといえば、コロッセオの魅力は殺戮ゲームではなく、ゾクゾクする様な血塗られた歴史の後ろ暗さそのものと、そこにあったであろう感情にあるからだ。
殺し合いが行われるとき。猛獣と闘わされるとき。大観衆の面前で犯されるとき。
勿論そこには感情があって、きっとそれは剥き出しの絶叫の形をとった筈なのに、血しぶきの混じったその絶叫が数万の観衆の剥き出しの歓声を呼ぶ見世物になっていたという気持ち悪〜い雰囲気。
「うわぁ、人間って本当にこんなことで歓べちゃうんだなぁ…」
という最低人間博覧会の様なエゲツなさ。
この絶叫・歓声がSFコロッセオには足らんのですよ!
もっとエゲツなく! もっと最低人間に!
過激な残虐シーンなんかじゃ足りません! それを歓び、歓喜しろ!
自分の中の野蛮人を見るという変態チックな歓びが、コロッセオにはあるわけです。
映画でもゲームでも、主人公は剣闘士だけれど、楽しいのは彼等の英雄的戦いっぷりではなく、彼等を見てツバを飛ばしながら歓喜するサイテーな大観衆なのだ。
僕は彼等の間には加わらない。いや、ときどきは加わるけど。
彼等を観て、彼等の中に自分の姿を探している。
カプコンのゲーム『シャドウ・オブ・ローマ』の中で、アグリッパは言う。
「貴様ら、そんなに殺し合いが楽しいか!」
単純な台詞だけど、けっこう本質を突いている。
殺戮を楽しむことができる人間ってのは、現代では一部の異常心理だと扱われるが、古代では皆がそうだった。だからって古代人は異常者の集まりだったという訳じゃない。
ここから導き出されるのは、人という生き物は同種の殺し合いを楽しめる様にできているという受け入れがたい事実だ。
「現代はストレス社会だから、粗野な娯楽が求められ〜」
とか文化人ぶってみるのも悦に入れるが、古代ローマだってかなり進んだ文化的な国家だったのだ。現代も見習えば良いと思える部分も結構ある。
だからもうカミングアウトしちゃいましょうよ、と僕は冗談めかして暗く笑ってみたりする。
我は野蛮人、チョットだけ知恵を持つ。
SFコロッセオ(特に映画)には、そこんとこかなり本気で頑張って貰いたい。
[おまけ]
ポール・W・S・アンダーソンの脳内を一瞬で誤解する動画。