レッドクリフ
ジョン・ウーって人は撮る映画の徹底した娯楽性や、丸っこくて角の無い顔つきの印象と違って、すっごい頭のゴッツゴッツした頑固親父タイプに違いない。
別にインタビューや俳優からの評判でそういうのを読んだ訳じゃないので全ては僕の妄想なのだけれど、僕は密かにそう信じている。
だってこのオッサンは、昔っから同じ様な映画ばかりを撮り続けているのんだもの。
ジョン・ウーのデビュー作は「男たちの挽歌」。
僕はジョン・ウー作品の中では今でも「男たちの挽歌」の初期2作が大好きだ。
「男たちの挽歌」はそれまでブルース・リーやジャッキー・チェンの様なカンフー映画が主流だった香港映画界に、ヤクザ映画を彷彿とさせるキレた内容と銃撃シーンを持ち込み、香港ノワールというジャンルを確立した記念碑的な作品である。
そして今に通じるジョン・ウーの基本的なエッセンスの全て――フェティッシュと言い換えてもいい――が、この作品には詰まっている。
黒いコート、サングラス、2丁拳銃というその後のアクション映画で何度も模倣される事となる鮮烈なスタイル。
スローモーションと火薬を多様した銃撃戦描写。
そして何より後々にも続く、義理と人情の物語だ。
いま「うっわー、男臭っ、キモッ」とか思った人は実は大正解で、ジョン・ウーは男にしか興味がない人だ(性的な意味でなく)*1。だから僕は「ジョン・ウーが三国志を撮る」と聞いたときに思わず膝を叩いて納得したものである。
三国志はジョン・ウーの大好きな、義侠に溢れた魅力的な男達の世界だ。
義理、人情、友情、戦い……そこはジョン・ウー向けエピソードの宝庫である。
そして何よりレッドクリフの印象は、フェイス/オフやM:I2といったハリウッドでのジョン・ウー作品とは一線を期すものだ。どう違うのかを適切な言葉で語ろうとすると僕の文章力では追いつかないので、ここは誤解を恐れず特殊な表現を使わせてもらおう。レッドクリフをひとことで表すならば、
ジョン・ウー巨大版。
ジョン・BIG・ウー。
とても…おっきいです…と言うか、お兄ちゃん、おっきいよおおとか言いたいくらい今までのジョン・ウーよりもレッドクリフはデカい。
スケールがデカいと言ってしまえば凡庸な表現になってしまうが、とにかくデカい。
デカさとは戦争映画というアクション映画というスケールの大きさではない。
彼のこだわる「男」「漢」「英雄」などの考え方が爆発的に大きくなった。
ジョン・ウーは彼なりの美学で「英雄とは何か」をとにかく華麗に描いてみせる。
「長坂の戦い」における趙雲や関羽の様な豪傑は勿論だが、孔明や周瑜、そして孫権や劉備の様な「英雄」達。「赤壁の戦い」は5万対80万の戦いだ。
そのトップに立つ人間は、彼等全員の命を自分の手に委ねられる。
もちろん「英雄」だって兵士達だって生きたい。
だが数万の兵士達は、彼等が命を投げ出すに足ると思える「英雄」に自分の命を委ねる。
心酔され、尊敬され、崇拝され、憎まれ、恨まれ、たくさんの命を自分の手に委ねられ、それら全てを一身に受けて気が狂いそうな程葛藤し「英雄」は、決断を下す。
数万の人間の「死に様」を決める。
それまでのジョン・ウー作品が描いてきた「一人の男としての生き様」から「数万の死に様を背負う生き様」へ。「英雄」の生き様とは、彼等に命を委ねた人々の死に様だ。
「英雄」とは力が強い者の事ではない。
頭が良い者の事ではない。
幾万の人々が命を賭けるに足ると思える「生き方」のできる人物。
この映画にはそういった凄味がある。
徹底して「男」と取り続けてきたジョン・ウーの集大成としてふさわしい作品だ。*2
この次にする事がなくなるんじゃない? 次も三国志しかないんじゃない?
とか思ってしまう。
だかそこはあのガッチガチ頭のオッサンのこと。
次もきっとクサくてクサくてたまらない「生き様」を撮るに決まってるけどな!