ハーモニー レビュー(2度目)
ハーモニーは身体性の喪失から始まる物語だ。
しかし身体性と意識の関係については恐らく意図的に無視されている。
サイバーパンク側の人間としては、こういうスタンスは強く興味を覚える。
何故なら攻殻っぽいと評される見た目のイメージに反して、ハーモニーのスタンスはサイバーパンクじゃない。サイバーパンクのアンチテーゼだ。
サイボーグに代表される様にサイバーパンクは身体性に自己を求めず、むしろ身体性から開放されたいと願う。身体を超えたネットの向こう側とか。
それには身体を失っても個は存在すると前提されるか――SFでは馴染み深い考えだが、ブラッドミュージック(若い人には人類補完計画)の様に、意識がフラットに繋がることによって高位へとシフトするというタイプの進化が描かれる。(今考えるとちょっとイイカゲンな気もするけれど。)
――だけど80年代の人々が夢見たネットによる個の獲得という夢は見事に散って、むしろネットは人々を部分的にフラットな物にしてしまった。
多様な繋がりが一種の群体として機能し、ある階層において僕らは溶けるまでもなく個を失いつつある。
そこで、身体性の話になってくる。「私の身体」っていう感覚。
感覚的な話になってしまうが、ハーモニーは押井守のイノセンスに近い。
身体感覚をが全て「私の身体」でなくなったとき、身体から来る「私の存在」を信じられないというのはある種のリアリティを持ちえる話だと思う。
霧慧トァンの感じていた虚しさは、きっとバトーの感じていた虚しさと似た物だったろう。
オッサンみたいなヒロインだと感じた人はきっと頭の片隅に眼鏡目のオッサンの姿がチラついたからに違いありません――だからって自殺しようってのはおねいさん達はあまりに短絡的だ。
この辺りはもっと詰めて欲しかった気がする。
しかしそう考えるとイノセンスもサイバーパンクじゃないという信じられない結論になる。
えーマジでー? なんでやねん。嘘やん。
言ってる俺だってチョット納得できん。イノセンスはサイバーだろ。
――本当はここからが本題なのだけれど、もう少し内容がまとまってから書きたい。
まとまらなかったらスンマセン。