伊藤計劃 ハーモニー

ぼくらは世界に息苦しさを感じている。
街からは喫煙席が無くなり、酒の自販機は夜には停止し、メタボリックシンドロームなる突然聞く様になった耳慣れぬ横文字のおかげで、デブには社会的ペナルティが付きまとう。
振り返れば、あのテロがある。


テロとの戦いの面目で、僕らはいま監視されている。
いつ、何処で、誰が、何をしているのか。
昔は街のどこそこで立小便している野郎が居ても、ちっとも誰も気にしなかった筈なのに。
今じゃ住宅街にも監視カメラ、子供や老人のケータイにはGPSと言う名の発信機ときている。
Googleストリートビュー? なにそれ。喰えるの?


正義と言うモラルが始め戦争を、モラリストが止めようとしている。
戦争で傷ついた人々を助けろと、モラルリストが叫ぶ。
けどぼくらは自由を愛するリベラリストで、自分の幸福を追求するのにいつだって必死である。
幸福の追求は、憲法が保障しているぼくらの権利なのだから。
でも、何処とは言わないがなんか色々と変じゃない?


以前からこの息苦しさはあった。ただ、今ほどは酷くなかった。
この息苦しさが明確になり始めたのは、思えばあのテロからだった気が──。



と、いきなり恥ずかしい電波を飛ばしてみるが、別にナルシってる訳じゃなくて、わりかしとマジです。(でもきっと後悔しそう)
というのも今年最初に読んだ本が、SFファン&小島ファンのカリスマ・伊藤計劃御大のコレだった訳です。

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

(以下・ネタバレ注意)
伊藤計劃の作品を現代小説と言ったらヘンな奴だと思われるだろうか。
確かにメインとなる大ネタはイーガンばりのものだし、人工筋肉を利用した飛行機などのアイテムはいかにもSFを感じさせる。
しかしそれらの足元を彩る紛争や倫理観は現代を真剣に見据えてものだし、一貫して描かれる終末の風景の端々を、ぼくらは既に目にしている。


ユートピア物というジャンルは、理想郷だと思っていたら実はディストピアでした!(例外 デモリションマン
とか、理想郷を目指したらガッチガチの管理国家になりました!(例外 デモリションマン
みたいなネタが多いのだけれど、ここで描かれるユートピアはそんな詰めの甘い物ではない。
世界の人々が互いを気遣う、福祉厚生社会。
そこに漂うのは、世界全てが病んでしまった様なんとも言えない息苦しい死の雰囲気。
しかしそれは話の出発点でしかない。
恐らくこれが伊藤計劃の作風なのでしょう。もっと理詰めで、ガンガン攻めてくる。
話をまとめる力が無いのでザックリザックリと端折って説明すると、


感情とは、何の為かは分からないがそれが生存に有利だった為に獲得された形質らしい。
だが、生きることに特化した福祉厚生社会の中で、その形質が原因で自殺者が現れる。
人間が自らを殺すことのできる形質を持つ生物に進化した、そのこと自体が招いた悲劇だ。
だからそんな形質は消してしまった方が、人間は幸福になれる。
だから、消してしまおう。

ということになる。
この物語の最後に提示されるのは、「人間のいう生物」の完全な理想郷だ。
「生物」ではなく「動物」と言い直した方が分かりやすいのかもしれない。
この作品が最後に到達する世界は東浩紀の言うの「動物化」にかなり近い。
蛙や蝶がする様にコンサートを開き、子供の動物が遊ぶ様に遊び、大人の獣が性欲を発散する様にセックスをする、というアレだ。


感情(欲望)は失われ、欲求だけで行動する人間・哲学的ゾンビ=動物が闊歩する世界。
世界は幸福であった──と終るラストは、人によっては解釈の分かれるであろう。


ただ、ぼくのバカ脳の理解が追いつかないのはの、ETMLの解釈の問題。
この物語はETMLという感情を記述するプログラムで書かれている、ということになっている。まあ、それは理解できるのです。
では感情を失った哲学的ゾンビが何故そんなプログラムを作り、記述するのか?
読み終わってずっと考えてるのだけれど、ぼくには「知識を得る際のちょっとした味付け」程度の理由しか思いつかない。バカですから。


または「感情」をアーカイブしといて、
「昔は感情という物がありました。どんな物かって言うとこんな物です」
とでも言って手渡す本だったりするのだろうか?
誰か教えてください。いやマジで。プリーズ。