再会の街で
ワンダと巨像が映画化されるというニュースを聞いて驚愕する。
ちょっと調べてみた感じでは、掲示板界隈はブーイングの嵐の様だ。
ワンダと巨像+映画というキーワドを脳内検索すると、僕は「再会の街で」でアダム・サンドラーとドン・チードルがもの凄いハイテンションで遊んでいたのを思い出す。
だから今日はゲームの話はせず、ちょっとだけ「再会の街で」の話でもしようかと思う。
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物語の主人公であるアランは、充実した日々を送っていた。
幸せな家庭を持ち、開業医として安定した収入を持ち、女性にもそこそこモテたりする。
この映画はアランが、9.11で家族を失ってから心を閉ざしてしまった旧友・チャーリーと数年ぶりの偶然再会するところから始まる。
心を閉ざしたチャーリーは社会に背を向け、仕事もせず、「ワンダと巨像」や70〜80年代ポップスに没頭する様にして生きている。
彼のことを心配したアランは再び友人として付き合おうとするのだが、10年近く会っていなかったチャーリーは彼にとっても殆ど他人だ。
元歯科大のルームメイト同士で互いのことは知っている。気心も知れている。
だがチャーリーは変わり果てて、かつての姿は見る影もない。
そんな彼とどう付き合えばいいのかアランには分からない。
傷ついた彼の心に踏み込むこともできない。
このどうにもならない距離感・関係性が、とてもリアルなのだ。
このリアリティは、多分チャーリーの人物像から生まれている。彼は前述の様にゲームや音楽に没頭し、更にキックボードの様な原付バイクで街を走り回る。それら全てに孤独を感じていながらも、それらを「見ないことにする」為に彼はゲームや音楽に没頭する。
アランはそれらの行動を「チャーリーの世界」と表現するが、このチャーリーの世界は実はチャーリーだけのものじゃない。それはきっと誰もが持ち合わせている世界なのだ。
誰だって、踏み込んで欲しくない・踏み込みたくない部分が常にある。
チャーリーだけでなく、アランにもある。もちろん僕にだってある。
傷つくのを恐れるのは、見たくない物から目を背けるのは、なにも10代だけの特権ではない。
再会したふたりが友人として関係を築くことができたのは、彼等が互いの心に踏み込まなかったからだ。心を深く探りあわない関係。良くいえば、互いを尊重した関係。
だが悪く言えば、薄っぺらい関係だ。
だけどそういう関係だったからこそ、2人は心を開く。
互いが互いを傷つけないと分かっているからこそ、互いが心を開いてない事に気が付き、互いが互いを傷つけないと分かっているからこそ、心を開く事ができる。
互いの心に踏み込まないという、まるで不戦協定の様な関係で繋がっていたふたりは、そんな不器用な関係だったからこそ心を開き、チャーリーは見ないふり続けてきた「自分の傷」に目を向ける。
この作品の主題に9.11は関係ない。だから劇中にあえてその言葉は使われない。
これは「自分が受け止められない程の現実に直面してしまった人間」を描く映画である。
悲しみを抱えた彼等が立ち向かうのは、暴れ狂う巨像ではない。
自分が生み出した虚像との、やっぱり哀しい戦いだった。